
自然界の不思議と、そこから見えてくる「白」の定義について、独自の視点で考えてみる。
わたしが自然界のドキュメンタリー映画に惹かれるのは、子どもの頃、ボロボロになるまでページをめくった動物図鑑の影響かもしれません。ローボードにあるディスクには、圧倒的な映像美と、生態系の神秘、自然界の営みの尊さを収めた作品、アース(earth)、ディープ・ブルー(DEEP BLUE)、オーシャンズ(OCEANS)、ライフ(ON LIFE)、ネイチャー(NATURE)などが並びます。
寒さのせいか、それらを眺めて遠い北極の地で暮らすある動物のことを思い出します。そう、真っ白な氷の上に佇むホッキョクグマです。日本では親しみを込めて「シロクマ」と呼ばれる彼らですが、その愛称が示す通り、私たちの目には真っ白でふわふわとした姿として映ります。
けれど、彼らのその美しい毛並みが、本当は「白くない」ということを知ったとき、私は少しばかりの衝撃と、それ以上の感銘を受けました。白いと信じて疑わなかったものが、実は白ではなかった。それは決して期待外れなどではなく、むしろ自然界が作り出した精巧な仕組みへの畏敬の念に近い感覚でした。今日は、そんなシロクマの毛に隠された秘密について、少し思いを巡らせてみたいと思います。
はじめてその事実を知ったのは、何気なく手に取った科学雑誌ニュートンか、あるいはBBCのドキュメンタリー番組だったかもしれません。シロクマの体を覆っているあのふさふさとした毛は、一本一本を見てみると、実は透明なのだそうです。顕微鏡で覗くと、それはまるでガラス管のような構造をしていて、中心が空洞になっています。つまり、ストローのような形をした「透明な管」が密集して生えているのです。
では、なぜ透明なはずの毛が、人間の目にはあんなにも鮮やかな白に見えるのでしょうか。ここには、光のいたずらとも言える現象が関係しています。たとえば、透明な氷を細かく砕いてかき氷にすると、白く見えます。それと同じように、太陽の光が透明な毛の内部で乱反射し、散乱することで、人間の目には「白」という色として認識されるのです。これを「散乱光」と呼ぶそうですが、空に浮かぶ雲が白く見えるのも、これと同じ原理です。
そう考えると、シロクマは白い服を着ているのではなく、「光をまとっている」と言い換えることができるかもしれません。なんだかとても詩的で、ロマンチックな響きではありませんか。厳しい極寒の環境で生き抜くために、彼らは光そのものを身につけ、あの真っ白な雪景色の中にその身を隠し、天敵のシャチから身を守っているのです。
そして、もうひとつ驚かされるのが、その透明な毛の下に隠された肌の色です。ふさふさの毛をかき分けてその下の肌を見ることができたなら、そこには漆黒の闇のような「黒」が広がっています。鼻先や肉球が黒いのを見れば想像がつくかもしれませんが、全身が真っ黒な肌で覆われているのです。
この「透明な毛」と「黒い肌」の組み合わせこそが、シロクマが極寒の地で生き抜くための、合理的で賢い戦略なのです。透明な毛は太陽の光を通過させ、下の黒い肌へと届けます。黒という色は、ご存知の通り熱を吸収しやすい色です。つまり、彼らの体は太陽のエネルギーを効率よく取り込み、体温を保つことができるように設計されているのです。それと同時に、空洞になった毛の内部の空気は断熱材の役割を果たし、一度取り込んだ熱を逃がさないように保温してくれます。
外見は雪に溶け込むカモフラージュとしての「白」を演出しつつ、その内側では太陽の恵みを最大限に活かす「黒」を隠し持っている。この二面性には、思わずうなってしまうほどの機能美を感じます。もし彼らが単に「白い色素を持った白い毛」をしていたら、これほど効率的に熱を得ることはできなかったでしょう。自然の進化というのは、時として人間の知恵を遥かに凌駕するような完璧な解答を用意してくれるものです。
この話を知ってからというもの、動物園でシロクマを見る私の視点は少し変わりました。以前はただ「白くて大きくてかわいい」と思っていた彼らの姿が、今では「光の散乱を操る、孤高の勇者」のように見えてくるのです。そんな彼らは、数キロ先のアザラシのにおいを嗅ぎつけるという驚異的な嗅覚も持っています。
そういえば、動物園のシロクマがときどき少し緑色がかって見えることはありませんか。これもまた、彼らの毛が「透明な管」であるがゆえの現象です。毛の内部の空洞に藻類が入り込み、そこで繁殖してしまうことで、全体がうっすらと緑色に見えてしまうことがあるのです。
もし彼らの毛が単に白い色素でできているだけなら、藻が入り込む隙間などなく、緑色になることもなかったでしょう。あの緑色の姿は、彼らの毛が特殊な構造をしていることの、ある種の証明でもあるわけです。少し気の毒な気もしますが、そんな姿さえも、彼らの生態の不思議さを物語っているようで愛おしく感じられます。
また、野生下でも、食べたアザラシの脂がついたり、土の上で転がったりすれば、その色は変化します。彼らの「白さ」は、あくまで光の反射によるものであり、確固たる色素ではないからこそ、置かれた環境や状況によってその色合いを変えていくのです。
シロクマの毛の話を通じて強く感じるのは、私が普段「見ている」と思っている世界が、いかに曖昧なものであるかということです。目に見える色や形をそのまま信じ込み、「これは白い」「あれは赤い」と定義付けをして暮らしています。けれど、視点を少し変えたり、科学の目で覗き込んだりすると、そこには全く違う真実が隠されていることがあります。
「白」とは何でしょうか。色素としての白なのか、光の反射としての白なのか。シロクマにとっての白は、生きるための機能であり、結果として現れた現象に過ぎません。彼らは自分が何色に見えようと気にしていないでしょうし、ただその環境に最適化された姿で、悠然と氷の上を歩いているだけです。
私たち人間が自分自身や他者と接するときも、これと同じようなことが言えるのかもしれません。表面に見えているものがすべてではなく、その奥には全く違う色が隠されているかもしれない。一見冷たく見える人が、内側には情熱的な黒い芯を持っているかもしれないし、派手に見える人が、実は透明で繊細な心を持っているかもしれない。シロクマの毛の構造を知ることは、物事の本質を見ようとする姿勢を、優しく教えてくれているような気がします。
また、この「透明である」という性質には、どこか自由な響きも感じます。何色にも染まっていないからこそ、光の加減で白く輝くことができる。もし彼らが最初から「白い絵の具」で塗られていたとしたら、それはただの固定された白色です。けれど、透明であるからこそ、彼らは太陽の光を受け止め、雪原の輝きと同化することができるのです。
人は大人になるにつれて、自分自身にいろいろな色を塗り重ね、ラベルを貼り付けたくなりがちです。「私はこういう人間だから」「あの人はああいうタイプだから」と思うことで、安心感を得ようとしているのかも。でも、シロクマのように、本質は透明であってもいいのかもしれません。環境や光の当たり方によって、白く見えたり、時には少し違う色に見えたりする。それでも芯の部分には、生きるための熱を蓄えるしっかりとした「黒い肌」を持っていれば、それで十分なのではないでしょうか。
冬の動物園に行くと、寒さの中で白い息を吐きながら、シロクマが水に飛び込むシーンに出会うことがあります。水から上がった彼らの毛は、濡れて束になり、少し地肌の色が透けて見えることもあります。その姿は、乾いているときのふわふわとした愛らしさとは違い、野生の力強さと厳しさを感じさせます。濡れることで透明度が増し、光の散乱が減るため、本来の姿に少し近づくのかもしれません。
そんな彼らの姿を見ていると、自然界のあらゆるものが、無駄なく、そして美しく繋がっていることに改めて気づかされます。北極という過酷な環境が生み出した、透明な毛と黒い肌。それは偶然の産物ではなく、長い時間をかけて紡ぎ出された生命の物語そのものです。
次に誰かとシロクマを見る機会があったら、ぜひこの話を思い出してみてください。「あの毛、本当は透明なんだよ」と語ることで、目の前の景色が少しだけ深みを増して見えるかもしれません。ただの白いクマではなく、光と熱を巧みに操る、自然界の傑作として。そして、目に見える色がすべてではないという、ちょっとした気づきも添えて。
世界は私たちが思っているよりもずっと複雑で、だからこそ面白い。シロクマの「白くない」毛は、そんな当たり前の、けれど大切なことを、静かに語りかけてくれているようです。冬の雪景色も、もしかしたら無数の透明な粒が、私たちを楽しませるために光を踊らせているだけなのかもしれません。そう思うと、厳しい冬の寒さも少しだけ柔らかく感じられるような気がします。
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私のお気に入りドキュメンタリー映画「アース」です。何度も繰り返し観ているのですが、何回観ても、深い余韻と胸にグッと込み上げてくるものがあります。ご覧になったことがないようであればぜひ。おすすめです。Amazonのプライムビデオにもあります。
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